2015年8月15日土曜日

「葉っぱのフレデイ」に寄せて

立秋もとうに過ぎ、晩には秋の虫の声が聞こえてくるようになりました。

今日は70回目の終戦記念日。
とは言っても、そのことに個人的な結びつきを感じるのは、正直難しいです。

ただ、この時期だからこそ、「いのち」というものに触れるきっかけは、テレビや雑誌などでも数多く提供されているようです。


6月に鹿児島へ行った時、鹿屋や知覧にある特攻資料館に立ち寄りました。

印象に残っているのは、戦争という大義の中で失われた「集団のいのち」というよりは、むしろその大義の中で失われた、「個別のいのち」のありようだったことを思い出します。

失われた一人一人のいのちに、各々の生活があり、家族や友人や恋人との間には情愛の結びつきがあった。そんな当たり前のことが、当たり前であり続けることを許されなかったために、その失われたいのちの一つ一つが、なおさら尊く感じられました。

鹿屋史料館 平山郁夫氏のステンドグラス / WEBより拝借

9月に『葉っぱのフレディ』を朗読付きで演奏するにあたり、「いのち」について、不十分ながらも考えてみています。

なんとなく漠然とした、上滑りなスローガンをなぞらえるのでなく、せめて自分が納得しうる拠りどころを探しているのだと思います。


このお話しは、擬人化された葉っぱの「フレディ」が、四季の移ろいを、人の一生に重ね合わせて進行します。生命力や希望にあふれる春夏を経て、やがて季節が移ろい秋冬を迎える。その過程の中で、いのちの終焉は大きな巡りの中に組み込まれていると気付く…というもの。

この「巡り」というものに、人は希望を見出すのでしょうが、この「巡り」って何なのかな?と。
もちろん一つは「輪廻」、という大局的な概念なのかもしれません。
でも、もっと私自身に近く感じるためにはどう捉えたら良いのだろう、と。


近頃出会ったある本の中に、

《いのちの終焉というものは、生きている者にとって永遠に知りえないことであったとしても、それが家族や友人、自分にとって大切な人たちとの離別ならば、その存在は死後においても、日々近くにあるよう感じられたことはないだろうか。その人が「還ってきたかのような」或いは「そこにいるような」感覚を抱いたことは?》

…というような記述がありました。(原文ではありません。)


「葉っぱのフレディ」で語られる「いのちの巡り」とは、例えばそのようなことでも良いのではないか、と思ったのです。

「いのち」とは、その大きな概念の中で触れようとすると、雲をつかむような漠然としたものになってしまうけれど、自分と親しかった人や、私的な関係における人の「いのち」の存在ならば、自分に近しい感覚として、思いを寄せることができるのではないか、と。


”Pie Jesus” from Requiem, Faure / Barbara Bonney

そんなことを考えた、8月15日でした。
思いは深く、響きは軽やかに行きたいものです。


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「葉っぱのフレディ」プロジェクト http://klangjapan467.blogspot.jp/2015/06/blog-post_12.html

ご来場ありがとうございました / 葉っぱのフレディ
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あ、フレディが♪
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