生徒のSさんが参加しておられるのです。
初めて「朗読会」なるものの存在を知ったのは、ドイツにおいてでした。詩や文学作品などを、朗読を通して味わう、というものです。ただ在独当時、ドイツ語でのそれは少しハードルが高いように思われて、体験する機会を逃してしまっていたのです。
今日は「華岡青洲の妻(有吉佐和子)」といった硬派な文芸作品から、庶民の生活の中に人間の心の襞を写し取った「かわうそ(向田邦子)」、方言で味わう「かっぱのよめっこ」や古典落語の「七度狐」という、大変バラエティに富む内容で、とても愉しめました。
朗読会 演目 |
「華岡青洲の妻」が始まった時、お客さんの気が静まって、一言一句、高度に集中している様子が伝わってきました。並みの音楽会より、密度の高い集中力です。音楽におけるある種の抽象性と、言葉の具体性。聴き手のキャッチの仕方が異なるようです。
聞くところによると、朗読をする人はお客さんの方を見てはいけない、とか。これは朗読者本人の「個」を滅して、作品そのものを際立たせようということだと理解しています。
音楽をする者も、本来は同じ境地だと思います。(目線に関しては、また別の考え方ですが)「オレ、オレ」と主張する個性よりも、引き算してなお滲み出る個性のあり方を、私はより尊いと感じます。何より、作品が主役なのです。
Sさんは、朗読とフルートを吹く事は似ている、と仰います。
呼吸だとか、支えだとか、音響に直接的に関わってくることもそうですし、文章を「単語からフレーズに」流れをまとめていく、ということにも、類似性を感じるそうです。
分野が違っても、共通する真理を見出すこと。これって人生の喜びの一つだな、と思うのです。
Sさんの他にも何人か、お話が「見えて」くる読み手がいらっしゃいました。登場人物のキャラクターだったり、情景描写だったり、季節だったり、温度だったり、そのお話しが立体的に想像されるのです。素晴らしい体験でした。
「美幸会」という朗読会の皆さんの真摯な取り組みは、人間の良心そのものだという気がします。良い勉強をさせて頂きました。そして何より、一人の聴衆として愉しませて頂きました。
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