2015年5月19日火曜日

ロバート キャンベル氏の講演会へ

週末、ロバート・キャンベルさんの講演会に行きました。
日本文学の研究者であり、テレビ等でのコメンテーターなど、広くご活躍の方です。

文学をご専門とされる方のお話しをまとめるには、到底力不足ですけれども、印象に残るお話でしたので記しておきたいと思います。


江戸時代後期の儒学者であり、教育者、漢詩人でもあった、広瀬淡窓(ひろせたんそう)という人の七言絶句(漢詩の定型の一種)が紹介され、『日本人の人付き合い』についてのお話しがありました。

【通釈】

他郷での勉学には、苦しいこと、つらいことが多いと言うのはやめなさい。そこには一つのどてらをともに着るような、苦労を分かち合う仲間がいて自然と仲良くなるのだから。塾舎の柴の折戸を開けて外に出てみると、霜は雪のように白く降りている。さあ、君は川に行って水を汲むのだ。ぼくは山でたきぎを拾ってこよう。



広瀬淡窓は、江戸時代の階層社会にあって、身分や出自、年齢に関係なく、能力主義の私塾を作った人だそうです。

当時は、藩が違えば言葉も通じず、生活習慣等も異なっており、塾生どうしの諍いが絶えなかった。前出の詩には、人間どうし様々な差異があるけれども、日常の共同生活を通して「慣れ親しむ」ことを促しています。

つまり「知識や情報」というアタマで判断したことや、「先入観や偏見」というココロ(=主観)で感じ取るもので決めつけたりせずに、「まぁ、やってみんさい」と、日常生活を共に営むことによって、相親しむことができるだろう、という詩なのだそうです。

キャンベルさんによると、日本の江戸や明治期の文書には、このような日本人らしい人付き合いを感じさせる記述が、しばしば見つかるとのことです。

元来日本人は他者を受け止め、「人との距離を調整する能力」に長けていた。「楽あれば苦あり」という表現は、英語には存在しないそうですが、例えばこの一言を見ても、日本人は苦楽(や善悪)を絶対化して分け隔てるのでなく、「苦楽を一つのサイクルとして」受け入れる力がある、というようなお話しでした。


今回の催しは、しばしばお世話になっている犬山国際交流協会の主催でしたので、幸運なことにキャンベルさんのご講演の前に、一時間ほど場を共にすることができました。たゆたうように穏やかで、時折好奇心のアンテナが響く。なんだか独特な揺らぎを感じる方でした。

キャンベルさんの日本文学のご研究のきっかけは、一般的に想像される、東洋や日本に対する情緒的な憧れやロマンティシズムではなく、研究対象に対する「好奇心」や「興味」のみに依っている、と仰います。私は内心苦笑してしまいました。 (^^ゞ

ただ、日本人の繊細なものの感じ方を淡々と見つめる彼も、また格別に素敵でありました。

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